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K : 『われはロボット』〜アシモフになりたいアシモフと、人間でありたいディック〜


SFインターメディアフェスティバル2015詳細はコチラ

SFインターメディアフェスティバル2015まで残すところあと1日となりました。
ご予約のお問い合わせなどもたくさん頂いておりまして、イベントは賑やかになりそうな予感がしてワクワクしております。
天気予報によると当日は雨とのことですので、ご来場の皆様には寒さと雨の中大変かもしれませんが、どうぞお気をつけてお越しくださいませ。
当日券のご用意もありますので、突然時間が空いたという方にも遊びに来て頂ければと思います。


さて、告知以外のブログ更新もたまにはせねばと思い…
SFインターメディアフェスティバル2015昼の部のテーマは「ロボットは人間を超えるか」ということもあり、ロボットについて考えることにしました。

『われはロボット』[決定版]
アイザック・アシモフ 小尾芙佐訳
早川書房

アシモフと言えば、SFのロボット観を変えた「ロボット工学の三原則」でしょうか。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反する恐れのないかぎり、自己をまもらなければならない。

この『われはロボット』にはスーザン・キャルビン博士が記者に対して話す回想記として、9つの短編が収録されています。ロボット工学の三原則は、その中の「うそつき」の執筆で確立された原則だと、巻末に掲載されている瀬名秀明さんの解説で書かれていました。

アシモフは作品の整合性にこだわった書き手だったようで、ロボットたちがこの三原則を究極的に守るがゆえに発生する問題を、あらゆるパターンで描いています。そして、作品内のロボットたちは、とうに人間を超えた完璧な機械でありながら、人間に服従する哀れな機械でもありました。三原則を厳格に守りながらロボットを描くアシモフの姿勢は、まさに作品内で描かれるロボットさながらです。

私自身はまだまだSF小説歴は浅く、他にロボット(アンドロイド)と聞いてすぐに思いつくのは、P.K.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』くらいですが、この作品は、『われはロボット』のロボット共存社会とは正反対の描かれ方をしています。ディックのロボット作品は「ロボットが規則を破ることで発生する問題」を扱ったのに対し、アシモフのロボット作品は「ロボットが規則を厳守するあまり発生する問題」に重点を置いているのです。

『われはロボット』「8、証拠」で、スーザン・キャルビンは、ロボット疑惑をかけられたバイアリィという男について言及した際、「ロボット工学の原則すべてに従う場合、彼はロボットであるかもしれないし、また単に極めて善良な人間であるかもしれない」と述べています。この台詞に、アシモフの人間とロボットへの見解が集約されているように思われます。
ディックが、情のない人間はロボットと同じであるという認識を持つのに対し、アシモフは、ロボットが「極めて善良な人間であるかもしれない」という逆説的な判断を下しているのです。

ロボットという単語が生まれたのは1920年のこと、チェコの作家カレル・チャペックが『R.U.R』という戯曲で「労働」を意味する単語をもじってロボットと名付けました。この作品に登場するロボットは、反乱を起こす機械たちという、言わば人類の敵として描かれています。この作品以降、ロボットはネガティブな機械として扱われてきましたが、アシモフのロボット工学の大三原則によって、その認識は覆されたようです。ただ、ディックもロボットを単純に、冷徹な機械であると見なしていたわけではありません。情のない人間はロボットであると同時に、たとえ上辺でも情を感じられるロボットは人間と同じではないのかというジレンマも、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では1つの大きなテーマになっています。

ところで、アシモフの妻・ジャネットによるエッセイ「アシモフになりたい」(「SFマガジン」1995)の中で、アシモフは死の間際、幾度となく「アシモフになりたい」とつぶやき、妻が「あなたがアシモフだ」と伝えたところ、幸せそうに笑みを浮かべて寝入ったというエピソードがあるそうです。彼は多くの作品でロボットを描いていく内に、もしかしたら自己の存在という迷宮に入り込み、人間・アシモフへの渇望にうなされたのかもしれません。そしてディックも、不遇な生活や人間関係に苦しみ、「本物」の人間とは何かという問題に固執した作家でした。

『われはロボット』は1950年に出版されたもので、ディックが小説家デビューを果たしたのは1952年ですので、時代としてはほとんど重なっていますが、このように対照的なロボット観を持った作家が、ほぼ同時期に活躍していたというのは興味深いことに思われます。(正確には、ディックが有名になったのはもう少し先になりますが…)社会の転換が文学を巻き込んだのか、文学の転換が社会を巻き込んだのか、文化も社会も経済も激動の時代ですから、どちらにしても不思議ではないかもしれません。

…作品ではなく作家の話ばかりになってしまいました。
『われはロボット』の中で一番胸が締め付けられたのは「うそつき」でした。アシモフのロボットは、私にとってはあまりに「善良」過ぎて悲しくなります。極限のジレンマを突きつけられて狂うロボットの姿は、たとえ実際には感情というものが備わっていなかったとしても、見ていられないものでした。

と、申し訳程度に感想を…笑


現代では当時よりもずっとロボットが身近な存在になりました。ロボットがまだ人間より弱い立場であれば愛され続けるかもしれませんが、その一線を超えた時に、人間は人間でいられるのか、それを私が生きている間に見届けられるかどうかは少し気になるところであります。



K
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