作品感想の記事 (1/1)

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『華氏451度』レイ・ブラッドベリー幸福のベクトルー(追記あり)

(7/27追記)

こんばんは、おもちΩです。

明日7月26日(日)に、第3回名古屋SF読書会が開催されます。課題本はレイ・ブラッドベリ『華氏451度』です。予習ついでに考えをまとめてみました。

この物語の舞台は、書物が人々の思想を煽動する“悪”とみなされる近未来・・・ファイアーマンという職業は、本を焼き尽くすことを生業とする者たちに与えられた世界です。人々は統制された生活の中で考えることを放棄し、華氏451度で焼却される本の火柱は、そんな人々にとって一種の娯楽となりました。主人公モンターグもその一人であり、ファイアーマンという仕事に誇りを持っていました。しかしある晩、好奇心旺盛で独創的な思想を持つ少女と出会ったことで、モンターグが心の奥底に秘めてきた本への関心の扉が徐々に開かれていきます。自分自身が持つ真の欲求に気付いたモンターグは、新たな幸福を求めて過酷な逃亡劇を繰り広げるのでした。

※以下、ネタばれを含む感想が続きます。

近未来ディストピアを描いた作品を手に取るのは初めてだったので、始めのうちは読み進めるのに少々手間取りました。また、登場人物の誰もが、発する言葉は抒情的であり、移ろいゆくモンターグの曖昧な思考を捉えるのは至難の業でした。そのため、終盤でモンターグが目的を持って走り続けたあたりはかなりすんなり読み進められたのですが、そこに行き付くまでにはどちらかというと苦手な作品ではありました。ただ、読み終わってからは、『華氏451度』から「幸福とは何か」という物語の側面をふと感じました。印象に残ったのは、妻ミルドレッドとの決別でしょうか。モンターグの幸福と、ミルドレッドの幸福のベクトルは別方向に向いていたということ・・・しかし彼らの幸福の在り方を決して否定していないところが、この本の魅力ではないかと、個人的には思い至りました。モンターグや英文学者が辿り着いた記憶を拠り所とする生活も、ミルドレッドを始めとする時代に適応していき深淵なる思考を放棄した人々の生活も、どちらも否定されてはいないのだなと・・・。

モンターグがしてしまったことは取り返しのつかないことではありますが、後に合流した、本を愛する人々が暴力ではなく記憶で社会に対抗する術を使ったところが非常に抒情的で美しい描き方だと感じました。また、ヌーベルバーグ映画としても知られる『華氏451度』も、あらゆる言語が重なり合い、ひとつの調和を織りなすラストシーンは、強く印象づけられる詩的な世界を創出していたと思います。


後日、明日のSF読書会のレポートとして、再度『華氏451度』について記事を上げたいと思います。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

【追記:名古屋SF読書会を終えて】

第三回名古屋SF読書会は、初参加の方も皆勤の方も和気あいあいと、終始とても和やかで楽しい時間となりました。各班の意見交換も幅広く充実しており、笑いが起こる場面も度々ありました。

読書会を終えてからこの記事を読み返し、ふと…私、ずいぶん作品の内容が抜け落ちたまま感想を書いていたことに気付きました^^; 特に終盤、街が爆破されたことさえも記憶になく、いよいよ私の頭も反知性主義に陥ってしまったのでしょうか…笑 とりあえず、元の記事では「モンターグとミルドレット、どちらも否定されていない」なんて書いてしまってますけど、ミルドレット側は思いっきり爆破されとるやんと…ブックピープルに託されとるやんと…頭の中で木魚と鈴(りん)の音がポクポクチーンと鳴り響きました…。

そんなわけで、読書会は無事に終了しましたが、もう一度読んでおこうと思ったのでした。

おもちΩ
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『ソラリス』スタニスワフ・レム ―徹底的に答えのない問い―

こんばんは、おもちΩです。

先日、SFマガジンによる「ハヤカワ文庫SF総解説」に掲載される『ソラリス』の解説が、諸事情により公募されるという、面白い試みがありました。締め切りまでの猶予が10日間という急な募集にも関わらず、応募総数は20通とのことでした。その中で上位6名の解説文から読者投票により1つが決定し、結果は6月25日発売のSFマガジン8月号によって分かるとのことです。

Soralisがポーランドで生まれたのは、1961年のことでした。日本では1965年に『ソラリスの陽のもとで(飯田規和訳)』がロシア語からの重訳で出版(当時、ロシアの検閲によって原稿用紙約40枚分が削除されていたので、こちらの日本語訳でもそれが省かれている)され、その後、2004年に国書刊行会から『ソラリス(沼野充義訳)』で、ポーランド語から訳された全訳版が発行されました。さらには2015年に国書版『ソラリス』の文庫版が満を持して発売!そして今月は短編集に『泰平ヨンの未来学会議』(映画も日本上陸)と次々に刊行され、レムファンにとっては歓喜の2015年となっています。

『ソラリス』は、陽のもと版も含めて、私自身、何度読み返したか分かりません。重厚でありながら、どこか茫漠とした印象を刻み付けられる作品です。あれだけ綿密な設定が練られているにも関わらず、何一つ明確な答えが無くても、決して狐に摘まれたような感覚にはさせず、物語のどこを切り取っても、興奮が覚めることのない傑作だと思います。

※注意…この先あらすじ無しでネタバレ感想が続きます。


それにしても…個人的にはやはり、地球からの来訪者が持つ記憶を元に、ソラリスによって創出される「お客さん」について考察することが楽しくて仕方がありません。作品におけるソラリス学者の研究によれば、ソラリスは「擬態形成体(ミモイド)」と呼ばれる性質を持ち、その目的は「外部にある様々な形を猿真似すること」(文庫p211)と書かれています。つまり、「お客さん」たちは、ハリーにせよ、他の研究者たちのものにせよ、記憶の持ち主(以降「記憶主」と表現)自身に擬態したことに過ぎないのではないだろうかと思ったのです。

人間が自己を形成するにあたって強く影響を及ぼすものの一つとして考えられるのは、心的外傷(トラウマ)です。人間は過去の傷から、自分の行動や思考が無意識的に抑制されることがあります。その傷となった記憶は、例えて言うと、平常時は防衛本能によって記憶の海底に沈められ、そっと上から新しい記憶という砂を被せている状態なのです。時折その記憶が、何かの拍子に頭をもたげることがありますが、また時間をかけて別の記憶の砂で埋めていきます。

また、擬態とは、動植物において己の身を隠し、守るための能力です。この特性に目をつけると、「お客さん」という存在は、ソラリスが人類に向けたコンタクトでも何でもなく、身を守る…というと語弊があるのですが、ある種の適応行為だと考えられるのではないかと。(記事を書きながらふと思いましたが、この理論でいくと『砂の惑星』での機械の進化にも通じるような?)さらに擬態という行為は、擬態の元となる者の傍にいなければ、擬態として機能しません。このことから、記憶主と一定以上の距離から離れられない「お客さん」たちの制約についても、多少の辻褄が…いえ、こじつけが出来そうな気がしてきます。

つまり、登場人物の中でケルヴィンとハリーを例に挙げると、ソラリスはただ純粋に、ケルヴィンの心の最深層にある記憶を使って「ケルヴィンに擬態した」のであって、生前のハリーを複製しようとしたわけではないのだということです。駄目押しにもう一つ、ケルヴィンの同僚研究者であるスナウトは、「あれ(「お客さん」)については、おそらく何も分からないだろうけれども、ひょっとしたら、おれたち自身についてなら(何か分かるかも)……」(文庫p145/()内は私による補足)とケルヴィンに話す場面があります。これが「お客さん」の正体を暗に表現しているように思えるのです。

個人的な意見ですが、ソラリスのステーションで最もおぞましい擬態をされたのは、スナウトではないかと思うのです。彼の「お客さん」については、ある意味では清々しいほど謎に包まれていますが、スナウトが最も冷静、かつ客観的に「お客さん」を分析しているであろうセリフが端々に登場します。このことから、彼の人生において、他人が関わる深いトラウマを持っていなかったために、自分自身による、何か醜く劣悪と思われる過去の閃きが実体を持って彼の前に現われたことが想像されます。その正体は、彼の愛称である「ネズミ」がいかがわしさを備えた姿かもしれないし、そうではないかもしれません。

ソラリスのステーションにやってきた人間たちにとって不幸なことは、ソラリスは人間が持つ「心的外傷」といった常識を持ち合わせていなかったことです。(ここがレム特有の妙技でしょうか)その結果、もっとも記憶主の如実な写し鏡となっている記憶(できることなら永遠に避けていたい、他人に触れられたくない心の傷)をわざわざ選び取り、さらには記憶主が所有する「物理的な肉体」というオマケまで付けて記憶主に擬態していたのではないだろうか…と、思ったのですが…この解釈にはまだまだ穴があるんですよね…うーん。 

実を言うと、この記事を書いている間にも考察が二転三転してしまいました。そのため、流動的な解釈となってしまったことは否めません。ただ、私自身の『ソラリス』に対する考えの中で、これだけは変わらないと言えることは、惑星ソラリスを神だとは思わないということです。「不完全な神」だとも思いません。惑星ソラリスは、やはり1個の…広大な宇宙の中では、ちっぽけな惑星の1つなのです。

最後に、『ソラリス』の付録である「ソラリスのステーション」で、ソダーバーグ監督による『惑星ソラリス』が、批評家たちによって「宇宙での愛の物語」であると主張されたことについて、レムは「『ソラリス』という本は決して宇宙空間におけるエロスの問題を取り扱ったものではなかったはずだ」(文庫p415)と述べて憤慨しています。しかし、『ソラリス』はやはり、ケルヴィンとハリーのラブ・ストーリーが非常に注目を集めた作品であることも事実なのです。1つレムの誤算があったとすれば、それは記憶が肉体を持ったために、その肉体が記憶を通して意思を持ち始めてしまったという点ではないでしょうか。ケルヴィンから記憶を受け取ったハリーの肉体は、その記憶を元に行動することで、複製のハリーだけが持ち得る「ステーションでケルヴィンと過ごした日々の記憶」と、自分の存在についての知識を積み重ねていきました。そうする内に彼女は「自分はコピーに過ぎない」という悲痛な自己を持つようになり、ケルヴィンへの愛情と自分の存在の狭間で葛藤し、最後には生前のハリーと同様に、自ら消滅の道を辿ることを選択してしまいました。
スナウトは記憶の擬態を消滅させることを「解放」と例えました。しかし、二度に渡って愛する者に自ら命を絶たれたケルヴィンが、ハリーの記憶から解放される日は容易には訪れないでしょう。この虚しさから、私は本書を読み終えた時、古傷に冷たい風が吹きつけるような痛みを覚えたのでした。

レムという作家は、多くの哲学的・芸術的と言われる作品にみられるような、雲を掴むような問いかけではなく、あらゆる手段を以てしても敵わない、「徹底的に答えのない問い」を読者に与えてくれる、希有な作家だと思うのです。だからこそいつ読み返しても心が躍る…いえ、脳が踊るのです。この透徹した巨人に、何度でも挑みたくなるようなレムの魅力が、『ソラリス』にはふんだんに詰まっています。

回りくどい上に長くなってしまいましたが、ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。




はぁー、
レムが心底大好きです。

…今度こそ終わっときます。(^^;

K : 『われはロボット』〜アシモフになりたいアシモフと、人間でありたいディック〜


SFインターメディアフェスティバル2015詳細はコチラ

SFインターメディアフェスティバル2015まで残すところあと1日となりました。
ご予約のお問い合わせなどもたくさん頂いておりまして、イベントは賑やかになりそうな予感がしてワクワクしております。
天気予報によると当日は雨とのことですので、ご来場の皆様には寒さと雨の中大変かもしれませんが、どうぞお気をつけてお越しくださいませ。
当日券のご用意もありますので、突然時間が空いたという方にも遊びに来て頂ければと思います。


さて、告知以外のブログ更新もたまにはせねばと思い…
SFインターメディアフェスティバル2015昼の部のテーマは「ロボットは人間を超えるか」ということもあり、ロボットについて考えることにしました。

『われはロボット』[決定版]
アイザック・アシモフ 小尾芙佐訳
早川書房

アシモフと言えば、SFのロボット観を変えた「ロボット工学の三原則」でしょうか。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反する恐れのないかぎり、自己をまもらなければならない。

この『われはロボット』にはスーザン・キャルビン博士が記者に対して話す回想記として、9つの短編が収録されています。ロボット工学の三原則は、その中の「うそつき」の執筆で確立された原則だと、巻末に掲載されている瀬名秀明さんの解説で書かれていました。

アシモフは作品の整合性にこだわった書き手だったようで、ロボットたちがこの三原則を究極的に守るがゆえに発生する問題を、あらゆるパターンで描いています。そして、作品内のロボットたちは、とうに人間を超えた完璧な機械でありながら、人間に服従する哀れな機械でもありました。三原則を厳格に守りながらロボットを描くアシモフの姿勢は、まさに作品内で描かれるロボットさながらです。

私自身はまだまだSF小説歴は浅く、他にロボット(アンドロイド)と聞いてすぐに思いつくのは、P.K.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』くらいですが、この作品は、『われはロボット』のロボット共存社会とは正反対の描かれ方をしています。ディックのロボット作品は「ロボットが規則を破ることで発生する問題」を扱ったのに対し、アシモフのロボット作品は「ロボットが規則を厳守するあまり発生する問題」に重点を置いているのです。

『われはロボット』「8、証拠」で、スーザン・キャルビンは、ロボット疑惑をかけられたバイアリィという男について言及した際、「ロボット工学の原則すべてに従う場合、彼はロボットであるかもしれないし、また単に極めて善良な人間であるかもしれない」と述べています。この台詞に、アシモフの人間とロボットへの見解が集約されているように思われます。
ディックが、情のない人間はロボットと同じであるという認識を持つのに対し、アシモフは、ロボットが「極めて善良な人間であるかもしれない」という逆説的な判断を下しているのです。

ロボットという単語が生まれたのは1920年のこと、チェコの作家カレル・チャペックが『R.U.R』という戯曲で「労働」を意味する単語をもじってロボットと名付けました。この作品に登場するロボットは、反乱を起こす機械たちという、言わば人類の敵として描かれています。この作品以降、ロボットはネガティブな機械として扱われてきましたが、アシモフのロボット工学の大三原則によって、その認識は覆されたようです。ただ、ディックもロボットを単純に、冷徹な機械であると見なしていたわけではありません。情のない人間はロボットであると同時に、たとえ上辺でも情を感じられるロボットは人間と同じではないのかというジレンマも、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では1つの大きなテーマになっています。

ところで、アシモフの妻・ジャネットによるエッセイ「アシモフになりたい」(「SFマガジン」1995)の中で、アシモフは死の間際、幾度となく「アシモフになりたい」とつぶやき、妻が「あなたがアシモフだ」と伝えたところ、幸せそうに笑みを浮かべて寝入ったというエピソードがあるそうです。彼は多くの作品でロボットを描いていく内に、もしかしたら自己の存在という迷宮に入り込み、人間・アシモフへの渇望にうなされたのかもしれません。そしてディックも、不遇な生活や人間関係に苦しみ、「本物」の人間とは何かという問題に固執した作家でした。

『われはロボット』は1950年に出版されたもので、ディックが小説家デビューを果たしたのは1952年ですので、時代としてはほとんど重なっていますが、このように対照的なロボット観を持った作家が、ほぼ同時期に活躍していたというのは興味深いことに思われます。(正確には、ディックが有名になったのはもう少し先になりますが…)社会の転換が文学を巻き込んだのか、文学の転換が社会を巻き込んだのか、文化も社会も経済も激動の時代ですから、どちらにしても不思議ではないかもしれません。

…作品ではなく作家の話ばかりになってしまいました。
『われはロボット』の中で一番胸が締め付けられたのは「うそつき」でした。アシモフのロボットは、私にとってはあまりに「善良」過ぎて悲しくなります。極限のジレンマを突きつけられて狂うロボットの姿は、たとえ実際には感情というものが備わっていなかったとしても、見ていられないものでした。

と、申し訳程度に感想を…笑


現代では当時よりもずっとロボットが身近な存在になりました。ロボットがまだ人間より弱い立場であれば愛され続けるかもしれませんが、その一線を超えた時に、人間は人間でいられるのか、それを私が生きている間に見届けられるかどうかは少し気になるところであります。



K

T田:アルジャーノンに花束を

第一回SFインターメディアフェスティバル2015の詳細はコチラ

初めまして。SFコミュニケーション研究会会員のTです。
今回は当研究会代表のKさんに薦めてもらった『アルジャーノンに花束を』について書こうと思います。

『アルジャーノンに花束を』は、アメリカの作家ダニエル・キイスによるSF小説です。
主人公は、パン屋で雑役として働く精神遅滞の青年チャーリー・ゴードン。彼は知能を高める脳手術を人間の実験台第一号として施された結果、IQが徐々に上昇していき天才となります。しかし、自分の前に同様の手術を受けていたアルジャーノンというネズミが異常行動をとりはじめ、知能も急激に低下し始めたことから、自分の行く末を予感、実際に元の知能や情緒をも失ってしまうお話です。

私は、この小説を読み終えたとき、これもSFなのだということにまず衝撃を受けました。自分がそれまで抱いていたイメージと全く異なっていたからです。
会員をしていながら、私は元々、SFに対して少々食わず嫌いなところがあり、ごく最近まで自ら手を伸ばすことはありませんでした。趣味の読書や映画鑑賞の中でも、何となく避けてしまいがちだったように思います。
それはおそらく、SF作品と言ってぱっと思いつくのが、『スター・ウォーズ』、『スタートレック』、『ターミネーター』、『マトリックス』など、世界観がダイナミックかつ壮大なもので、自分の嗜好とは遠かったからです。

また、宇宙やロボットやコンピュータなど、工学や科学分野のモチーフを全面に出してくるSFの世界は理系の人のものであり、完全に文系人間な自分には理解できないだろうなという先入観もありました。先ほど挙げたどの作品も面白かったのですが、やはり自分の理系的な知識や興味・関心の欠如のせいで、SF然としたSF要素の面からは十分に楽しめていないなという悔しさや後ろめたさのような感覚が残っていたのもあります。

その点、この『アルジャーノンに花束を』は、実在しない架空の脳手術とその経過報告が核となっており、チャーリーの手記という形で、彼の知能状態の変化をその文体の使い分けで表現しているところは、虚構にリアリティを持たせる演出として実にSF的手法だなぁと思うのですが、全編を通して描かれているのはむしろチャーリーの心情や成長、そして彼の周りの人々の反応であり、常に「人間」に寄り添った物語でした。

手術を受けるまでのチャーリーは、いつもにこにこ、周りの人々にからかわれていたり意地悪をされていることにも気づかず、みんなは自分の事が好きで友達だから笑いかけてくれるのだと思っていました。しかし、知能が高くなっていくうちにそうではなかったということ、残酷な真実を知るのです。そして、超天才となったとき、以前とはまた別の意味で、他者との共感ができないという孤独に陥ります。

知らないということを知らないのは幸せです。傷つかなくて済むのですから。でも本当にそうなのでしょうか?自分や自分の状況を知らないまま生きるのが幸せなことなのでしょうか?そんなことを考えさせられました。

『アルジャーノンに花束を』は、SFとは壮大な世界を提示するだけでなく、一人の人間の奥底の部分にまで踏み込めるジャンルでもあるのだということを感じさせてくれた作品でした。
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